オススメ映画 紹介コラム”シネマ裏メニュー”vol.2『ハッピーアワー』

エッセイ「結局、何がハッピーなのか――『ハッピーアワー』(竹中啓二)

昔は良かった、などと言うつもりは毛頭ないけども――。

会社で初めての部署に研修に行ったり、初めて現場配属された人を相手にしたりと、否応なくお仕事として人に会わされてしまう局面がある。
仕事の上では仕事の話をしていれば良いのだけども、問題は休み時間だ。

僕がまだ若かりし新入社員のころ。分煙、という言葉もなかった時代。煙が目に染みる休憩室で、初対面の相手と何を話せばよいのやら――と迷うことはなかった。

野球(というか阪神)、競馬、パチンコ。

ほぼ男ばかりの現場を渡り歩いてきたせいもあるけど、話題はこれで問題なし。

内容は深くなくても良い。昨日オマリーが打ちましたね、とか朝あわてて会社に行く前、テレビを見もせず聞いただけのプロ野球情報を投げかけるだけで、目の前のおっちゃんは饒舌にしゃべりだしてくれる。僕はただ相槌をうてばよいのだ。ロクに興味もないのに。

とは言え、それで一応のコミュニケーションは成立していた。会社と言う仮想空間の中での、更に仮想的な会話ではあるが、何も考えなくて済む。

「休みの日は何しとん?」

「……部屋でトモダチと何となくダラダラ」と答えるような新入社員とひとりひとり会話の糸口を見つけていかなければならない、今に比べれば――。

『ハッピーアワー』30代後半の女性4人を中心とした群像劇。その中のひとり、桜子に、姑のみつがこう言う場面がある。

「好きで一緒になるって言うことの方がね、ずっと大変よ。あたしらなんか楽やったなって。ただ我慢したらええんやから」

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©2015KWCP

今や自由に恋愛して結婚なんてことは珍しくもないが、僕の親の世代では、そして『ハッピーアワー』の彼女たちの親の世代でも、結婚相手は親が決めた、結婚式まで相手の顔を知らない、ということも珍しくなかったのだ。

つまり大自由恋愛時代が日本に訪れたのは、つい最近のことなのだ。100年にも満たず、伝統でも何でもない。

「ただ我慢したらええんやから」というのは、社会が個人に要求した常識だとか風習だとか――まあ一つの知恵だったのだろうが、今さら、僕はその恩恵に与りたいとは思わない。恐らく多くの方もそうだろう。

では、どうするか? ――常識やら風習やらを自ら作り上げなければならない。

と、大げさに言わなくとも、人はずっと行き当たりばったりにはいられない。
知らず知らずのうちに、私たちは経験を分析して経験則に変え、日常に降りかかってくる困難をさばいている。

「ただ我慢したらええんやから」と言う時期の常識が今でもごまんと残っている。
それが、現在進行形の僕たちに当てはまらないのは当然のことだ。だから、自分の経験則を拡張し補強していく。
彼女たち4人はその能力がやや普通より優れている。

〈やや〉優れていることで、『ハッピーアワー』のヒロインにもなれた。

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©2015KWCP

更に、それぞれの経験則がぶつかり合えばどうなるだろう。反発しあうだけで終わるか、反発しあいながらも融合に向かうか。しかも古びた常識とも戦いつつ。

更に、それで終わらないのが『ハッピーアワー』の凄さであり恐ろしさだ。
所詮、人間が集団で個人で作り上げた常識や経験則は、とあるきっかけで軽々とぶっ壊される。何によって壊されるかは映画を観ていただきたいのだけど、『ハッピーアワー』はそこからの再生の物語でもあるのだ。

ちょっと待て。じゃあ何が『ハッピーアワー』なのだろう。

実はこの映画、企画段階では『BRIDES』という仮題が付いていた。タイトルが変更された経緯は濱口監督が明かしてもいるのだけど、映画を観終わって浮かんだのは、かの巨匠、黒澤明監督の言葉だ。

《僕が撮ってきた映画は、簡単に言えば、なぜ人間は幸せになろうとしないのか、って言いたかったんだと思うよ》

《話し合ってみるとかさ、工夫してみるとか、違う方向から見てみるとか出来ないのかね》

幸せになりたければ、僕は新入社員が来るたびに、彼らの個々の世界に接触を試みるほかなさそうである。ああ、めんどくさい。

参考図書
『カメラの前で演じること 映画「ハッピーアワー」テキスト集成』(濱口竜介・野原位・高橋知由・著/左右社)
『黒澤明「生きる」言葉』(黒澤和子・著/PHP研究所)

赤松 かおり

赤松 かおり

本とお散歩と食べることが大好きなイラストレーターです。webやフリーペーパーなどで、イラストを描いております。

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