毎週、てくてくひめじ界隈で得意な分野を持つ方々にコラムを書いていただくコーナー「かきくけコラム」。
ゲンゴロウ先生と教え子ササキさんによる「音声考古学的はりま地名さんぽ」、3回目です。
さんぽ03 美嚢という地名をめぐる謎(前編)
ゲンゴロウ先生 :
音声学と東北アジアの言葉が専門の言語学者。
好きな食べ物はりんご。
ササキ :
ゲンゴロウ先生の教え子になって15年以上が経つ。
最近よく歩く。
地名は好い意味の漢字2字で
ササキ : 前回の宍粟の話に続いて「美嚢」についてですね。
ゲンゴロウ先生 : 「美嚢」は古代播磨国12郡の一つで、奈良時代からある古い地名です。
ササキ : 今は三木市などに編入されて、もうなくなってしまったみたいですね。
ゲンゴロウ先生 : 明治以降は「みのう」と呼ばれていましたが、本来は「みなぎ」と呼んでいました。7、8世紀の木簡には「美嚢」以外にも、「美奈伎」の表記が見られます。
ササキ : 「美奈伎」で、音がわかるわけですね。
ゲンゴロウ先生 : はい、しつこいようですが、地名には元々…
ササキ : 元々、音で存在したんですよね。漢字が日本に入ってくる前から地名はあったはずだから。
ゲンゴロウ先生 : その通り。ミナギという地名に中国語の漢字を使って1音に1字を当てたのが「美奈伎」。ところが、日本が文化的に強い影響を受けていた中国では、地名は漢字2字で書くもの。それに倣って奈良時代、地名は漢字2字に統一すべし、しかも好い字で!という命令が朝廷から出されもしました。
ササキ : え〜好きにさせてくれよ、おらが村の名前なんか。
ゲンゴロウ先生 : そんなことで、ミナギという音に、好い漢字2字を当てはめて表記すればどうなるか?訓読みを使えば簡単です。「美凪」「弥薙」いくらでも思いつく。でも、播磨国の地名漢字表記作成者は、音読み(中国語音)のみで表記することにこだわりました。
ササキ : それでできたのが「美嚢」。美しい…なんですかこれ?
ゲンゴロウ先生 : 「嚢」は袋の意味です。毎回言いますが、漢字の意味は重要ではありません。音に当てはまる漢字の中から、よい意味のものを優先的に使っているのです。私が興味があるのは、昔、ミナギという音に「美嚢」の字を当てたプロセスです。「美」は音読みでこのままでいいのですが、ナギという音を、漢字1字でどうにか表現できないか、ここに当時の工夫と漢字の音が見えてきます。
ササキ : 音声考古学的な話になってきましたね!!
ンがなかった時代
ゲンゴロウ先生 : 当時、元からある地名に好い漢字2字を当てはめる作業で発生した、このような悩みは日本中に存在したと思われます。そこで編み出されたのが、第1回目で紹介した、母音添加方式です。
ササキ : たしか、信(シン)sinに母音aをつけ足して、sinaにして「信濃」と表記したとか…
ゲンゴロウ先生 : サヌキの「讃岐」は、讃(サン)sanに母音uをつけ足して、sanu、こういった工夫です。
ササキ : 「美嚢」の「嚢」もそういった話なのでしょうか。
ゲンゴロウ先生 : 「嚢」は音読みで…
ササキ : これ、胆嚢の「ノウ」ですよね
ゲンゴロウ先生 : そう、今は「ノウ」ですが、平安時代くらいには「ナウnau」と発音していました。
ササキ : 平安時代なう。
ゲンゴロウ先生 : そして、ナウの元になった古代中国(隋唐以前)語の音では、nangと言っていました。ちなみに今もnangと言っているんですけれどね。
ササキ : -ngで終わる音ですね。今の日本人には-ngで終わる音の使い分けは難しいと思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。
ゲンゴロウ先生 : 当時も同じように難しいのですが、それどころか、-nや-ngで終わる、つまり、ンで終わる言葉がありませんでした。ンで終わる言葉が定着したのは鎌倉時代頃だと言われています。
ササキ : ンがない!
ゲンゴロウ先生 : もちろん当時の知識人たちは、外国語として発音できたでしょうが、多くの日本人には発音はできませんし、-ンは、「ウ」に聞こえていました。
ササキ : ええーー!じゃあ、ライオンはライオウ?
ゲンゴロウ先生 : ライオウ?、とんでもない、当時は語頭のラも、ライの-aiも日本語にはなかったんですぞ。まあ、それはともかく、話をもどすと、相談の「相」という字は、「ソウ」と言っています。旧仮名遣いで「サウ」です。旧仮名遣いの音は、本来はそのまま音を写したもの。「相」の元の中国音はsangです。日本にこの字が入った時、「サン」ではなく「サウ」という音に写したのは、-nと-ngが聞き分けられない以前に、-ンで終わる音がその頃の日本語になく、「ウ」としたわけです。
地名を表す漢字の意味
ササキ : 「嚢」も旧仮名遣いでは「ナウ」、nangを「ナン」ではなく「ナウ」と写したんですね。
ゲンゴロウ先生 : 播磨国の地名漢字表記作成者は当然知識人です。ですので、嚢がnangだということは知っていました。そこに、iを追加して、nangi=na-ngi(ナギ)にすることを思いついたわけです!
ササキ : 音が先にあって、そこに当てはまる漢字をとにかく探したわけですね。
ゲンゴロウ先生 : nang+iという戦略でナギという音を漢字1文字で表すために、nangという音の漢字を求めたわけですが、何万字とある漢字の中で、このnangという音を持っていて、あまりに特殊でなく、普通に使うものは「囊」と「曩」しかありませんでした。
ササキ : たった2つしかないとは驚きです。「曩」という字もあまり見ないですね。
ゲンゴロウ先生 : 「曩」は「以前」という意味で、地名にはあまり適さなかったようです。
ササキ : 1)地名を漢字2文字で表す必要がある 2)しかも好い字を使わなくてはならない という当時のグローバルルールに、3)漢字は音読みで使いたい というローカルルールを加え、「ミナギ」の場合、「美」+1字で表すためには、もう「囊」しかなかったわけですね。
ゲンゴロウ先生 : そう、だから、ある種の地名に関しては、地名に当てられている漢字の意味について深読みすることは、ちょっとピントがズレているのです。
ササキ : それにしても「ナギ」が漢字一字になるのはすごい。…あれ?先生待ってくださいよ。nang+iだと、ナギというよりは、ナンギではないですか?
ゲンゴロウ先生 : いいところに気が付きましたね、ササキさん。まったく嚢中の錐とはあなたのような人のことですよ。
※次回「後編:nang+iでは難儀じゃない?」へ続きます。
文:ゲンゴロウ先生と、教え子ササキ