毎週、てくてくひめじ界隈で得意な分野を持つ方々にコラムを書いていただくコーナー「かきくけコラム」。
「懐かしい未来」をキーワードに、豊かな暮らしや生き方を模索する、いまいみきさんのコラムです。
第9回目「巡りめぐる水の旅へ」
水はどこからやってきて、どこへいくのだろう・・・。
わたしたちが生きていく暮らしのなかで、欠かすことができない「水」。梅雨空を眺めながら、未来につながる今の暮らしの在り方を、今回は水をとおして考え、見直してみたい。
このコラムにちょこちょこ登場している、かつてわたしが暮らしていたラダックという地域。標高4000mを超えたこの村では、地域にひとつ、この大地のバックにそびえ立つヒマラヤの山々からの湧き水を汲むことができる場所があった。
以前にも少し書いたが、この地域の家々には水道がないので、村人たちは早朝からバケツやタンクをもって、この場所にお水を汲みにやってきては、動植物のために何往復も重労働をしながら、何度も何度も、この場所に足を運んでいた。また、水が湧き出るこの場所の下流で、彼らは洗剤を使用することなく、石のうえで丁寧に洗濯を行っていた。ここで暮らす彼らは、皆がそろって水をとても丁寧に扱い、大切に使用していた。これは彼らにとって「いのちの水」なのだ。
山から湧き出てきたお水を、自分本位に考え使用するのではなく、まわりの人や環境に配慮すること。当たり前に行われていたこのやさしい光景が、わたしにはとても新鮮に思えた。それに加え、彼らは単に水を得ることができる場として利用するだけでなく、この場所で情報を交換したり、井戸端会議が行われていたり、とても楽しそうに暮らしが営まれている光景を眺めながら、かつて井戸が主流だった日本でも、同じような暮らしが営まれていたのかな・・・と昔の暮らしに想いを馳せてみたりした。
しずくのぼうけん
ヒマラヤの山々から溶けた水を、畑に利用したり、動植物に与えたり、人の生活用水として使用したり、大切に水を循環させていた彼ら。はたまた、蛇口をひねればいくらでもでる水を、使用するわたしたち。最近では、当たり前のように化学物質でつくられた洗剤を使用しながら、どんどん水を汚している暮らしが多くみられる。
しかし、わたしたちが汚した生活排水は水路をとおり、やがて川へと流れ、川へと流れた水はいずれ海へ。海で蒸発した水は、やがて雨となり、雨は大地へ。そして、いずれわたしたちのもとへと還ってくる。その循環は、この地球で暮らすわたしたちや次の世代の子どもたち、そして人間だけでなくこの地球に生きる動物や、水のなかに生きる生き物たちにも影響を与えることになる。汚染されていくことで、まわりの生き物や人が苦しんでいることを思うと胸が痛むが、「水」の有難みを感じながら生活している人は、この社会で実際にはとても少ないのではないだろうか・・・
「水はいのち」
わたしは今、山の整備に携わっていたり、最近では、友人主催の「eco洗濯ワークショップ」に参加したり、「祝福の海」という映像をみたりと「水」をとおして、これからの暮らしについて考える機会がとても多くなった。
先日わたしが参加した「eco洗濯ワークショップ」を例にすると、自然環境に負荷をかけないようにと、生き物や自然界・そしてわたしたちにもやさしい材料で、地球にも人間にもやさしい暮らしができることを教えてもらった。身近な環境で学ぶことができること。参加者の方たちと手で洗濯をすることで共有できること。手作業ならではのやさしい洗濯風景に、懐かしい気持ちになった。
自然や生命と共に生きる暮らしかたを改めて考えたとき、今わたしたちが行っている行動は、全て未来へとつながることだということを忘れてはいけないと思う。
そう、水はいのちなのだ。身体の約60%は水でつくられているわたしたち。ひとりひとりが、これからの未来を考え行動すると、きっと未来はやさしくあたたかいもので包まれる。環境に負荷をかけない行動は、わたしたちの身体にもきっと良い影響を及ぼすだろう。この地球で暮らすこれからのわたしたちや生き物たち、そして次の世代の子どもたちのために、今できることってなんだろう。身近に学ぶことができる環境に身を置くことで、なにか次につながる希望がみえてくる、かもしれない。
文責:いまいみき
かつらぎ自然のまなび舎 http://ameblo.jp/katuragimanabiya/